現在(いま)のわたしの原点がここにあります。

おいたち
○1958年熊本県八代市に生まれる
  やさしい父とがんばりやの母の本に長女として生まれる。病気一つしない元気な子どもでした。
  公務員の両親は、当時まだ珍しい共働きで、育児休暇もないころだったので、祖母が母乳を飲ませに母の職場まで毎日通っていました。いっしょにくらしていた祖父のひざの上で相撲のテレビを見たり、祖母作ってくれるおやつを食べるのが楽しみな「じいちゃん、ばあちゃん子」でした。

○小学校から高校時代
  周りの友だちのめんどうみがよく、クラスの係りなどなんでもひきうけてがんばりました。小学校四年生からはじめた陸上競技では長く市の記録を持っていました。当時からみかけによらず負けず嫌いで、とことん練習をするという根性がありました

○1977年鹿児島大学教育学部入学
  初めて親元を離れての鹿児島での生活。桜島の降灰に驚きました。「地域子ども会研究会」というサークルに入り、仲間と語り、活動していく中で、社会のことにも目がむくようになりました。一年生の冬に教養部自治会執行委員に選挙で選ばれ、マスプロ授業改善や、授業料値上げ反対、有事立法反対などの運動に先頭にたって奮闘しました。
○結婚して鹿児島へ
  大学卒業後、いったん熊本に戻り小学校教諭を二年間務めました。その後結婚して現在の鹿児島市吉野町に住みました。一緒に暮らす夫の母の農業を手伝いながら、三人の子どもを出産。当時子どもをおんぶして軽トラックの運転をして野菜を配達するという、たくましい母ちゃん。

○教育の現場で働きながら子育てに奮闘(福岡時代)
  夫の転勤で福岡県春日市へ。ここでは、小学校教員、保母、障害児施設指導員、学童保育指導員を勤めました。わが子も保育所、学童保育所(鹿児島でいう児童クラブ)に預け、父母会の役員としても夫婦でかかわり、春日市全体の学童保育連合会を立ち上げとその後の発展の一翼を担いました。春日市の学童保育は、全国的にも先進を行き、父母会の活動も活発で、10小学校すべて校内に設置。今、ログハウスへの改築が計画的に行われています。

○鹿児島に戻って
   八年間の福岡での生活を終え、帰鹿。小学校・中学校でPTAの役員として、子どもたちの学習環境改善のために仲間たちと力をあわせました。特に小学校のPTA副会長時には創立二十周年の事業が行われ、裏方として、企画・運営の中心で、会員の力を引き出してまとめていくことに力を入れました。


○これまでの経験を生かして
  2000年の市議選立候補後は、日本共産党市議団の議会ニュース発行や県議団の事務局長として、市政、県政にかかわってきました。これまでの自分自身の子育てや、仕事としての子どもたちとのかかわり、また、PTAの役員としての活動の経験を生かして、大人として次の世代の子どもたちへ、どんな日本、どんな鹿児島を残していくのかを常に考えながら、政治を変え、社会をよくしていきたいとがんばっています。


私と日本共産党

  私は、自民党一党支持の家庭に育ちました。政治は自民党がするのが当たり前、共産党は「何でも反対」の「怖い」ものと教えられて育ちました。大学入学と同時に家をはなれ、学生生活をおくるうちに、国民の味方のはずの自民党政治が学費を値上げしようとしている、有事立法という危険な法律をつくろうとしていることを知り、どうも私が教えられてきた自民党とは違うと感じました。

そして、歴史を学ぶうちに、過去の戦争当時、だれもが「聖戦」と疑わず、軍国主義一色に塗られていたとき、あの戦争は侵略戦争だと主張し、戦争反対を訴えていった政党があったということ、そして、そのために逮捕され、投獄され、その思想を捨てなかったために命まで失った人たちがいたという事実。それが日本共産党だったと知り、私は大変な衝撃を受けました。私がこれまで、教えられてきたこととはまったく違っている事実。そして、もっと歴史の真実を知りたい。もっと日本共産党のことが知りたいと思いました。

  それから、私は何冊かの本を読み、何人もの人と話をし、その数ヵ月後に、日本共産党への入党を決意しました。大学一年生。19歳の秋でした。
 一生に一度しかない自分の人生を、単に自分の幸福のためだけに生きるのではなく、周りのたくさんの人の幸福のために生きていきたい。自分の人生の歯車を、社会の歯車と重ねあわせ、歴史の進歩の方向に動かしていくために生きていきたい、そう思いました。
 今の私もそのときの思いと同じです。自分が日本共産党員として、候補者・議員としての役割を担い、周りの多くの人たちの幸福のため、要求実現のために働きたい、こういう思いです。

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